釈義と解釈、そして黙想

少し専門的な話にもなるかも知れません。おゆるしください。

聖書を読んで理解しようとするときに、そのための作業行程がが考えられるわけですが、それが釈義と解釈です。

釈義とは語句や文章の意味を解き明かすことです。ごく普通に、読んで理解することと言えば良いでしょう。

わからない語句に出会えば辞書を開いてその意味を確認します。文章がややっこしかったら、丁寧に文章の流れを理解し、文意を捉えようとします。簡単に言うとそれが釈義です。

語句や文の意味を曖昧なまま放ったらかしにせずに、意味を確かめていきます。多様な意味合いが読み取れそうだとしたら、その意味を確かめるために、意味を限定していく作業と言えましょう。

ところが、聖書はただ語句や文の意味が分かれば良いと言うだけでは済みません。大変古い文書ですし、元々はヘブル語やギリシャ語など古語で書かれていますから、語句や文の意味を確かめること自体が難しいのです。それに加えて、聖書は長い間、読み続けられてきており、読む人たちにとっても意味のある文章でした。

読まれることで信仰の共同体が作られ、培われてきました。さまざまな文化や時代に編み込まれて読み継がれてきたし、共同体が生み出されてきたと言えましょう。その過程で聖書は多くの言語に翻訳されました。私たちは聖書が書かれた2000年後の東洋の片隅で、日本語に訳された聖書を手に取り、読んでいます。翻訳はその時代時代における聖書の解釈作業と言えましょう。その解釈の歴史があって、私たちは聖書に触れ、聖書を受け取り、読んでいます。

その自分たちの理解が適切であるかどうかという問いの前にも立たされます。

そこで、釈義とともに解釈するという重大な作業行程が生じます。

釈義と解釈、おおよそそのようなことであるとご理解ください。

それでは黙想とは何でしょうか。

続く

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