日本基督教団信仰告白です

我らは信じかつ告白す。

旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。

教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。

我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。

(1954年10月26日第8回教団総会制定)
(1967年7月6日第4回常議員会においてふりがな確定)

刑罰代償説とは

第4回目の集いで、ルカ23章40節の「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。」から刑罰代償説を想起するというご発言がありました。それって何?という問いも出されたので、短く解説いたします。

刑罰代償説とはキリストの死にによる贖罪を説明する有力な説で、古典的な説明です。宗教改革者たちもこの理解に立っていました。その説とは、

人は罪のゆえに神の刑罰の対象であるけれども、人が受けるはずの刑罰をキリストが十字架で代わって受けてくださったことによって、人の罪が贖われたいう説です。

ちなみに、日本基督教団信仰告白は刑罰代償説を念頭に、次のように告白しています。

「御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。」

順次必要に応じて書き足します。

釈義と解釈、そして黙想

少し専門的な話にもなるかも知れません。おゆるしください。

聖書を読んで理解しようとするときに、そのための作業行程がが考えられるわけですが、それが釈義と解釈です。

釈義とは語句や文章の意味を解き明かすことです。ごく普通に、読んで理解することと言えば良いでしょう。

わからない語句に出会えば辞書を開いてその意味を確認します。文章がややっこしかったら、丁寧に文章の流れを理解し、文意を捉えようとします。簡単に言うとそれが釈義です。

語句や文の意味を曖昧なまま放ったらかしにせずに、意味を確かめていきます。多様な意味合いが読み取れそうだとしたら、その意味を確かめるために、意味を限定していく作業と言えましょう。

ところが、聖書はただ語句や文の意味が分かれば良いと言うだけでは済みません。大変古い文書ですし、元々はヘブル語やギリシャ語など古語で書かれていますから、語句や文の意味を確かめること自体が難しいのです。それに加えて、聖書は長い間、読み続けられてきており、読む人たちにとっても意味のある文章でした。

読まれることで信仰の共同体が作られ、培われてきました。さまざまな文化や時代に編み込まれて読み継がれてきたし、共同体が生み出されてきたと言えましょう。その過程で聖書は多くの言語に翻訳されました。私たちは聖書が書かれた2000年後の東洋の片隅で、日本語に訳された聖書を手に取り、読んでいます。翻訳はその時代時代における聖書の解釈作業と言えましょう。その解釈の歴史があって、私たちは聖書に触れ、聖書を受け取り、読んでいます。

その自分たちの理解が適切であるかどうかという問いの前にも立たされます。

そこで、釈義とともに解釈するという重大な作業行程が生じます。

釈義と解釈、おおよそそのようなことであるとご理解ください。

それでは黙想とは何でしょうか。

続く